『かざる日本』
どこから紹介したらいいのだろう。
本書『かざる日本』は気軽に読み飛ばせる本ではない。だが、専門的知識を要する学術書でもない。
読むほどに想像力は羽をひろげ、思考は深く誘われ、思いがけないほど絢爛(けんらん)な色彩と造形の世界が目の前に現れる。しかもそれらは特別なものばかりでなく、私たちのごく身近にあるものも少なくないと気づかされるのだ。
日本文化の「かざり」=「足し算にかけ算で盛って装って注ぎ込んだ過剰な美麗が床上浸水しているような」と著者が表現する世界。
それは、日本文化を形容する「わびさび」や「余白の美」あるいは「引き算の美学」というステレオタイプによって見えなくなっているが、古より絶えることなく存在していた、日本文化の本質の一面だったのだ。著者はそこに、「削(そ)ぎ落とす」美意識と同じくらい魅力を感じていたという。
そこで「かざり」について考察をめぐらせ、かざる文化がいかに人々の「熱狂や畏怖(いふ)を喚起」し、「制御不能な力で惹(ひ)きつけ」てきたのかを突きつける。そして私たちに、「その魅力にもう一度目を凝らした時、何が見えるのか。あなた自身の目でぜひ、確かめてほしい」と投げかける。
「組紐(くみひも)」「座敷飾り」「供花神饌(しんせん)」「紅」「香木」「鼈甲(べっこう)」「帯」「茶室」「薩摩切子」「変化朝顔」「結髪」「料紙装飾」「表装」「刀剣」「音」「螺鈿(らでん)」「水引折形」「ガラス」「和食」、そして最後に、かざりの働きについて綴(つづ)られた終章、「かざる日本」という目次のラインアップ。
もし一つでも気になる項目があったら、ページを開かない手はない。著者の論考は的確で理路整然と端正ながら、語り口はしばしば熱をおびて、微に入り細を穿(うが)ち、まるで目の前で一緒に精緻(せいち)な工芸品を眺めているような心地になる。
例えば冒頭の「組紐」。
幅にしてわずか10-15ミリ。女性の和装に帯締が占める面積はごくわずかだが、着物、帯、帯揚と重ねていき、帯締の色柄がぴたりと決まった時の高揚感と言ったらない。画竜点睛(がりょうてんせい)というが、まさに見開いた瞳から、龍の長大な身体に風を巻いて生気が通うように、装う者の指先まで自信を漲(みなぎ)らせる。精緻に組み上げられた紐ひと筋に宿る力は、侮り難い。
帯締め(組紐)を着付けの小道具のひとつと見なしていた自分が恥ずかしくなるほどの気迫とパッションが文章からあふれ出る。
「紐」の歴史を文字通り紐解き、丹念な取材による現代の職工の渾身(こんしん)の手わざ、未来を模索する現状もしっかりと伝える。単に讃(たた)えるのではなく、伝統が伝統として今に伝わるゆえんを示し、点ではなく線でしっかりとらえようとしているのがわかる。
驚いたのは、この章を締めくくるパラグラフ。
ヒモとカタカナで書けば、何やら頼りないこと夥(おびただ)しいが、それ自体が主役になることは少なく、何かの付属物としてのみ存在する紐が時に発する、雷光の閃(ひらめ)きのような創造性――。
表面的で、非本質的。従属的で、過剰。西洋近代がそのように定義して遠ざけた、装飾/かざりの力と意味を、(略)コトとモノの間から見出していきたい。
あえてのマイナスイメージ宣言からの挑戦。だがその言にたがわず、人為の所産でありながらその「手わざ」に芸術性が加味されて人の心を打つという工芸品のメカニズムを次々と解いてゆき、かざりが決して表面的な位相のものではないことを喝破してゆく。
かざりの文化は時代が要請する美意識であり、文化・芸術のみならず、歴史、文学、世相風俗などあらゆる営みに根差し、「濃密な文脈」に置かれることで多様な解釈を生んできたことも明らかにするのだ。
「かざり」は人為の所産であり、文化であり、社会のコードそのものだ。
機能性より遊戯性と非合理性の勝った、使い手を日常から連れ去るものたちは、やはり「かざり」の領域にあるのだろう。
もちろん、すぐれた装飾考、日本文化論だが、安易に括(くく)ることはしたくない。
稀代(きだい)の見巧者がナビゲートする「かざり」の文化は今現在も更新=アップデートされ続けているのだ。その豊かさに、文字通り目が眩(くら)む。
そこにどれほど思いを馳(は)せられるか。読み手の想像力が大いに試されている。
PROFILE
八木寧子
やぎ・やすこ
湘南 蔦屋書店 人文コンシェルジュ
新聞社、出版社勤務などを経て現在は書店勤務のかたわら文芸誌や書評紙に書評や文芸評論を執筆。ライターデビューは「週刊朝日」の「デキゴトロジー」。日本酒と活字とゴルフ番組をこよなく愛するオヤジ女子。趣味は謡曲。
からの記事と詳細 ( 盛って装う伝統的美意識 「わびさび」とは異なる魅力 - 朝日新聞デジタル )
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