Tuesday, February 2, 2021

コロナは防げるという過剰な合理性信奉 三浦瑠麗氏が感じたリベラルの限界 - livedoor

新型コロナ危機、首相交代、アメリカ大統領選……激動の2020年とは一体何だったのか。そして2021年はどのような年になるのか。国際政治学者の三浦瑠麗さんが語る新型コロナ。リベラルの限界、政府の私的介入……国家は、私たちは、どうすればよいのだろうか。

三浦瑠麗さん

近代合理主義を信じる「リベラルの限界」

新型コロナウイルスについて考えるとき、大前提として、我々はときに人類にはいかんともしがたい自然の摂理による災いに巻き込まれるのだという認識を持たなければいけません。2020年は全人類がその自覚を持つことを迫られる年になるはずでした。

しかし、多くの人はまだその認識には到達していなさそうです。おそらく2021年から徐々にそうした言説が先進国から出てくるのではないかと思っています。

世界各国がロックダウンや強度の自粛を経験したため、経済的、社会的影響は少なくとも3〜5年は続くでしょう。新型コロナウイルスが未曾有の災厄というよりも、ウイルスに対する各国の反応が非常に例外的なものだったということが言えると思います。

各国のウイルスへの対処を見ていると、人類の能力の有限性に無自覚な人があまりに多いことに驚きます。

これまで欧州や米国のリベラルは気候変動問題などへの取り組みを通じて、人類の限界を学んできました。科学技術を発展させることはできるかもしれないが、人間の能力には限界があるということ。地球を治癒不可能なまでに痛めつけてしまえば持続可能な開発や成長ができないということを学んだのが、90年代以降のリベラルであったはずです。それは、物事を自分に見える狭い範囲で「合理的」に捉えようとする態度の限界に気づく作業でもありました。

しかし、突如として「ウイルスは防げるはずだ」「被害をゼロに近づけることができるはずだ」という過剰な合理性信奉に世界中が囚われてしまいました。人類はまだ近代合理主義の幻想から抜け出すことができていないのです。

ここで言う幻想とは、社会や経済、家庭、人々の健康など様々な要素のつながりと相互作用を無視して、好きなように社会をデザインできる、という考え方を指しています。

新型コロナウイルスによる国別の人口100万人当たりの死者数を見てください。一年単位で見れば、どのような政策をとったとしても、被害の度合いはほぼ地域差と、人口密度、そして平均寿命で説明できます。

米国とメキシコとチリとブラジル、アルゼンチンの政策上の違いはあるはずなのに、人口100万人当たりの死者数は似通っているし、日本と韓国、香港の政策は違うのに、人口100万人当たり死者数はさほど変わりません。アフリカは高齢者が少ないので死者が少ない。

つまり、ウイルスをノーガードで受け止める国は現実的には存在しないのと同様、どんな政策をとったとしても、それ以外の条件によって決まる被害を大きく左右できるわけではないということです。

しかも、日本と韓国との違いから明らかになように、どんなに新型コロナウイルスの死者を防いでも、総体としての死者数をかえって増やしてしまえば意味がない。

ヨーロッパ諸国では、リベラル陣営にいるはずの人が次々に極端な私権制限に賛成しました。それも「致し方ない」というよりも積極的に政府の介入を求めたのです。

「致し方ない」というのは、ある意味保守主義的なバランスをとる考え方です。リベラルが保守化したならわかりますが、そうではなくて積極的にオーバーリアクションを求めた。これは私が知っていたヨーロッパの自由主義のあり方ではありません。

私がオーバーリアクションと呼んでいるものの代表はロックダウン政策ですが、それだけではありません。人々の感情の動きによる社会的混乱、与野党の非難の応酬による政治的混乱。イタリアの混乱を例にひき、こういったことを防ぐべきだと2020年3月に参議院で公述人として呼ばれたときにお話をしました。

結果を見ると、世界中で同じような混乱が起きてしまったことが分かります。どの国を見ても、人間というのは政治と不安と恐怖が結びつくと、同じような行動をして被害を拡大させるということがわかった一年でした。

人間の能力は、そんなにたいしたものではないということを受け入れることによって、ベストエフォートの考え方に基づく行動ができます。

これは新型コロナウイルス対策の分科会メンバーの釜萢(かまやち)敏先生との座談会でも同じ結論に至ったのですが、結局、我々にできる最大の対策は手指を石鹸で洗い消毒し、そしてマスクを適切に使用することです。それから可能であれば、移動は人が少ない時間帯に行い、リモートワークやフレックスタイム通勤を活用する。

これ以上我々が日常的にできることはないと言っても過言ではありません。過剰に恐れることも全く恐れないこともどちらも賢明ではありません。

政府による私的介入を許してはいけない

飲食時に気をつけるマナーとして、マスクを着脱しながら食べたり、飲んだりすることを政府が推奨しました。私個人としては、会議中に飲み物を飲むときには、マスクを適宜着けたり外したりする作法が定着したと思っています。ただ、食事の場合はどう考えても無理です。食事の仕方にまで政府が口を出すのは明らかに介入しすぎでしょう。

誰と会って食事をするとか、何時まで食べるとか、本来足を踏み入れてはいけない私的領域に政府が介入しています。一律に網をかけるしかやり方がないのだろうか。それよりも医療体制を組み替えることの方が重要なのではないでしょうか。

政府や自治体によるパチンコ店や夜の街に対する吊し上げのようなこともまずかったと思います。確かに法律上は企業の名前を公開することはできます。しかし、これは法的な問題として申しあげているのではなくて、我々の社会のあり方を考えなければいけません。

店名を晒すことは、政府がマスコミやネットや市民に「集団リンチ」を呼び掛けていることと同義だからです。感染症や戦争など、集団にストレスがかかった時、必ず少数者に攻撃が向かいます。その構造に自分も加担していることに自覚的でないといけません。

社会に介入することの副作用を、政府は全国の小中高の一斉休校措置で学んだはずです。この措置で子供を持つ女性の生活は麻痺しました。子供たちの学びや健康も阻害されました。休校要請は世間から大きく批判されますが、こうした世論の声を受け、政府も軌道修正しました。以降は学校は閉鎖しないという方針を明確にしています。

それから政府が決断を迫られたのは、夏のお盆の帰省でした。ここでは科学ではなくて、情を重視するという決断をしました。家族の間の紐帯の話に政治は関与しないとしたわけです。

願わくばすべてのことについて、政府はこうあってほしいと私は思っています。家族と会う権利を政府が奪っていいはずがありません。リスクは周知するとしても、「かく生きるべき」というのは、政府から強制されるものではなくて、個々人の選択の問題だからです。

経済活動を停滞させることで失業率が1パーセンテージポイント上がれば、4000名以上の自殺者が増えるという試算があります。新型コロナウイルスによる死者とどちらが結果的に多くなるのか。

おそらく2、3年単位で見れば自殺者の方が多くなるでしょう。緊急事態宣言を繰り返し発動すべきだ、とか長期化させるべきだと求める声がありますが、冷静に考えていただきたいです。

2020年はウイルスとの戦いの年でしたが、医療体制は戦時仕様にはなりませんでした。結果的には社会的、経済的犠牲を負った国民と、コロナ対応に追われる一部の医療従事者や保健所のみがコストを負いました。もしも特別な体制でコロナ治療をする、あるいは病院などで感染者を隔離するというのならば、医療に関しても本格的な戦時体制を敷くべきでした。

2021年は、ワクチンの効果もあり、ウイルスが日常にある「平時の年」に戻れるでしょう。個人的には、オーバーリアクトせず、新たな日常に静かに適応していくべきだと思っています。

(構成:杉本健太郎、撮影:村田克己)

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