* * * ■過剰なまでに防衛的 ――原教授は、会見の印象をこう語った。 眞子さんには、ありうべき攻撃に備えようとするからか、過剰なまでに防衛的で、ある種悲壮感というべき雰囲気すら漂っていました。「事実に基づかない情報」に苦しめられてきた、と眞子さんも小室さんも同じことを言っているんですが、小室さんに悲壮感はなく、若干にこやかな印象もありました。小室さんはずっと米国にいましたが、眞子さんの場合は、東京でバッシングを浴び続けていました。そんな物理的な距離の違いがあるのかなと思いました。 もちろん、二人への批判の中には向き合うべき意見もある可能性はあり、「誹謗中傷」という言葉ですべてひとくくりにしてしまうのは、本来であればよくないと思います。けれどもあまりに誹謗中傷が多いと、自分が潰されてしまうのではないかという恐怖を感じるだろうし、冷静な判断ができなくなることもあるでしょう。「情」を捨てて「理」だけで二人を批判するのは酷だろう、という気持ちが私にはあります。私自身も経験しているのでよくわかりますが、SNSはあっという間に拡散しますので、大きなストレスを抱えてしまうのは想像に難くありません。 ■大正から結婚に「恋愛感情」 ――二人の結婚は、皇族としては異例づくめと言われている。 儀式を行わない、一時金を受け取らないなどの点では異例ではありますが、私が研究する明治以降の皇室の歴史を見ると、すべてが異例というわけではなかったと思います。 少なくとも明治時代まで、天皇家では政略結婚が当たりまえで、結婚について本人の意思は介在していませんでした。たとえば、嘉仁皇太子、後の大正天皇の結婚相手に内定していた伏見宮禎子女王は、体調に問題があるとして婚約が破棄されました。明治天皇は子どもを側室たちが生んでいましたが、近代国家としてそれを改めたいと考えた政府の意向でした。結果、大正天皇は1900年、子どもが生めそうだという理由で急浮上した九条節子と結婚します。本人の意思があずかり知らぬところで決められたので、スムーズに結婚は進みましたが、皇太子夫妻の関係はぎくしゃくしたものになります。新婚旅行に相当する旅行で二人は日光田母沢御用邸に向かいましたが、嘉仁皇太子は近くにあった鍋島直大の別邸を訪れ、すでに梨本宮守正王と婚約していた娘の伊都子に会っています。大正天皇が女官を追い回したり、貞明皇后の怒りを買ったりしていたことは、元女官の山川三千子や坂東登女子が手記や聞き取りのなかで回想しています。
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