記者コラム「多事奏論」 編集委員 駒野剛
1945(昭和20)年9月、敗戦を受け入れてから3週間あまり。昭和天皇は栃木・日光に疎開していた明仁皇太子、現在の上皇さまに宛てて手紙を書いた。国民に多大の犠牲を求めた戦になぜ負けたのか、自らの率直な考えを示したのだ。
「今度のやうな決心をしなければならない事情を早く話せばよかつたけれど先生とあまりにちがつたことをいふことになるので ひかえて居つたことをゆるしてくれ 敗因について一言いはしてくれ 我が国人があまりに皇国を信じ過ぎて英米をあなどつたことである 我が軍人は精神に重きをおきすぎて科学を忘れたことである」
生物学の研究者である天皇は、科学的思考のできる方だった。日夜空襲を受け、戦力が損なわれていく現実を受け止め、敗戦を決意できたのも天皇しかいなかった。
科学的思考が欠如する一方、念ずればできるぞ、といった過剰な精神主義の横行。現代にも通じる日本の宿痾(しゅくあ)である。
人材の枯渇もあった。天皇は続ける。
「明治天皇の時には山縣(有朋)大山(巌)山本(権兵衛)等の如(ごと)き陸海軍の名将があつたが 今度の時はあたかも第一次世界大戦の独国の如く軍人がバツコして大局を考へず進むを知つて退くことを知らなかつた」
極めて客観的な分析だが、その4年前の10月、和戦の判断の際にあって、天皇その人が選んだのは陸軍大将東条英機だった。
下克上の陸軍を統制できる、ひいては戦争を回避できる人材と期待して選ばれた。しかし、東条内閣は米英との戦争に踏み切り、東条自ら陸相や内相、参謀総長を兼任して権力を集中した揚げ句、ガダルカナルやサイパン島の敗北を招いて失脚する。それまで3年近く天皇は東条を評価し続け、自ら更迭にも動かなかった。
「一生懸命仕事をやるし、平素云(い)つていることも思慮周密で中々良い処(ところ)があつた」(寺崎英成ほか編「昭和天皇独白録」)と言い、東条ほど天皇の意見を直ちに実行した者はないとも話していた。
それほど信頼された東条だったが、外面の強気さから想像できないほど内面は揺れていた。1943(昭和18)年初頭、東条は旧知の陸軍担当の元朝日新聞記者と差しで話し込んでいた。ポツリ東条は語った。
「戦(いく)さというものは…
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