アントニオ猪木「過剰なまでのサービス精神」とは?
元気ですかー?
元気があれば、何でもできる!
―― モノマネを含めると、もう1億回ぐらい聞いたフレーズである。このセリフの主であり、元気の象徴だったアントニオ猪木さんが、昨年10月1日、この世を去ってから早や4ヵ月が経った。享年79だから、逝っても別に不思議ではない歳だけれど、訃報を聞いたとき「そうか、猪木さんも死ぬのか……」とつい思ってしまった。今もどこか、亡くなったことに違和感があったりする。
先に断っておくが、私は別に熱心なプロレスファンでも、猪木信者でもない。小学生のとき、プロレス中継を観ていないと学校での会話に支障が出るので、なんとなく観ていた程度だ。この原稿も依頼があったので書いているのだが、プロレスはあまり詳しくないから…… と断らなかったのはワケがある。実は個人的に、猪木さんは昔からすごく気になる、大好きな人だったのだ。理由はふたつ。
ひとつは、誕生日が近かったから(笑)。私は2月24日。猪木さんは2月20日で「うお座つながり」なのだ。ついでに言うと、猪木さんは1943年(昭和18年)生まれなので、今年は「猪木生誕80年」のメモリアルイヤーにあたる。そう、傘寿まであともう少しだったのだ。80歳の誕生日を「元気に」迎えられなかったのは、本人もさぞ無念だったろう。
もうひとつ、猪木さんが気になった理由は、その過剰なまでの「サービス精神」である。本業のプロレスの試合に限らず、猪木さんの生涯には「何もそこまでせんでも」とついツッコミを入れたくなる出来事が多々あった。
猪木さんが亡くなったとき、世のプロレスファンがこぞって追悼文を書き、思いを語ったけれど、私はそういうガチな話とはちょっと別のところで、猪木さんの死を残念に思った。せっかくの機会なので、私の心をとらえてやまなかった「過剰なまでのサービス精神」とは何だったのかについて、音楽の話にも一応触れつつ(笑)、あらためて考えてみたい。
猪木が出演していたこども番組「みんなあつまれ キーパッパ」
実は、私がアントニオ猪木という人物をテレビで初めて観たのは、プロレス中継ではなかった。猪木さんは生前、その話にほとんど触れなかったところをみると、おそらく消したい過去だったのだろう。私が最初に猪木さんを観たのは「こども番組」だった。
今回あらためて調べてみたら、その番組は1972年10月に始まり、1974年3月に終了。わずか1年半で打ち切られたということは、要するに視聴率がふるわなかったということだ。フジテレビ系で、毎週日曜朝10時半から放送されていた『みんなあつまれ キーパッパ』である(私は名古屋の東海テレビで視聴)。
放送開始時、私は5歳の幼稚園児だった。その頃からテレビ好き&野球好きだったので、日曜朝は9時半から『ミユキ野球教室』(日本テレビ系)をじっくり観て、そのあとチャンネルを変え『キーパッパ』を観ていた記憶がある。われながら、なんとも振り幅の広い5歳児である。
『キーパッパ』に出演していた猪木さんの役割は、なんと「体操のおにいさん」だった。しかも番組中での名前は「アントニオ猪木」ではなく「アントンさん」。当時、ナイターはすでにバリバリ観ていたが、プロレス中継はまだ観ていなかったので「アゴの長い大きなおにいさん=アントンさん」として脳内に刷り込まれた。猪木さんに対する視点が人とちょっと異なるのは、そういう特殊な入り方をしたせいだと思う。
『キーパッパ』の中で、アントンさんはよく、子どもたちを前に夢を語っていた。細かい内容は忘れたが、毎回、夢と希望を持って前に進んで行けば、必ず道は拓ける、といった話をしていたように思う。まさに「迷わず行けよ 行けばわかるさ」だ。今頃気づいたが、そうか、オレは知らず知らず猪木さんに洗脳されていたのか!(笑)
実はすごい人だったアントンさん
翌1973年、小学校に入学した私は、いつも廊下でプロレスごっこをやっていた同級生が「アントニオ猪木っていう、どえりゃー強いレスラーがおるで、いっぺん観てみやぁ」(名古屋弁)と勧めるので、この年の春からNET(現テレビ朝日)系で放送が始まった新日本プロレスの中継(『ワールドプロレスリング』)を観てみた。すると、リング上には見覚えのある長いアゴの人物が…… ん? んんん??
「アントニオ猪木って、“アントンさん” だがね!!」
…… そう気づいたときの衝撃は、いまだに忘れない。ひろみちおにいさんや、よしおにいさんがプロレス中継にレスラーとして出て来たようなものだ。
プロレスファンの方は先刻ご承知と思うので、詳しい説明は省くが、この1973年という年は、力道山以来の歴史を持つ日本プロレスが解散。日テレ=ジャイアント馬場率いる全日本プロレス、NET(テレ朝)=アントニオ猪木率いる新日本プロレスを中継、という2大体制が固まった年だ。
同級生に「アントン・ショック」を伝えると、プロレス事情に詳しい彼は「猪木もよぉ、今いろいろ大変らしいんだわ」と言い、猪木さんは新日本プロレスの創立者であり、社長でもあると教えてくれた。まだ小1だったので、そう言われてもボンヤリとしか理解できなかったが「アントンさんって、実はすごい人なんだな」ということはよくわかった。
つまり『キーパッパ』出演は、会社を維持するための資金稼ぎであり(団体設立当初はテレビ中継が決まっていなかったため、大赤字だった)、新日のファンを増やすための窮余の策だったのだ。
新宿の街頭でいきなり場外乱闘、「伊勢丹襲撃事件」
初期の新日を語る上で欠かせないのが、ターバンを巻き、サーベルを持って登場。いつも場外乱闘で大暴れする「インドの狂虎」ことタイガー・ジェット・シンである。私は彼が大好きだった。猪木さんとの名勝負についてはすでに語り尽くされているので割愛するが、やはり触れておきたいのは、1973年11月に起こった伝説の「伊勢丹襲撃事件」である。
新宿伊勢丹前を歩いていたシンは偶然、猪木夫人(倍賞美津子さん)と遭遇。シンは「彼女がイノキのワイフだとは知らなかった」そうだが、倍賞さんがシンに対して何か言っているのを聞き「なんだ、この女は!」と向かっていったところ、そこに猪木さんが登場。「イノキがいれば闘うのは当然だ」というシンが猪木さんに襲いかかり、新宿の街頭でいきなり場外乱闘が始まったのである。猪木さんはガードレールやタクシーのボンネットに頭を叩きつけられ流血。街は大騒動になり、渋滞が起こり、見物人が通報、ついには警官も駆けつけた。
シンは「ヤバい!」とタクシーに飛び乗り、宿舎の京王プラザホテルに逃げ込んで逮捕を逃れたのだが、これでシンの名前は一躍有名になり、事件が遺恨となって、猪木vsシンは視聴率の取れるゴールデンカードとなった。
いかにもプロレス的な事件で、当時から「どうせヤラセだろ」という見方もあったが、そんなことはどうだっていい。ここで注目してほしいのは、猪木さんがとった事件の収拾策だ。警察から「シンを傷害罪で訴える被害届を出してほしい。もしこれがヤラセなら、新日を道路無許可使用で処分する」と言われた猪木さん。「ヤラセでは断じてないが、契約選手であるシンを訴えることはできない」と、シンが始末書を提出することで一件落着としたのだ。
私が思うに、伊勢丹前で2人が遭遇したのは、別に示し合わせたのではなく、まったくの偶然だったのだろう。ただ、ご両人は根っからのプロレスラー。阿吽の呼吸で「これは新日の名を売る絶好のチャンスだ」と感じ、つい本能で闘ってしまった、というのが真相ではないか。しかし、本当に襲いかかるシンもシンだが、受けて立つ猪木さんも猪木さんだ。「面白いことは何でもアリ」という、根っからのエンタメ精神を感じるではないか。その精神が、全日との差別化にもつながっていった。
伝説の異種格闘技戦「猪木vsモハメド・アリ」戦
「何でも “アリ”」といえば、ダジャレみたいで恐縮だが、1976年に日本武道館で行われた伝説の異種格闘技戦「猪木vsモハメド・アリ」戦もそうだった。当時私は小4で、リアルタイムで中継を観ていた。主要なプロレス技をほぼ禁じられ、立った状態でのキックまで禁じられた猪木さんは、15ラウンドすべてリングに寝た状態で、執拗に蹴りを繰り出すばかり。結局、派手なバトルなどはないまま試合は引き分けで終わり、正直ガッカリした。
それから16年後の1992年…… 当時、テレ朝の深夜番組でADをやっていた私は、「スポーツ名勝負」という企画の際に、局に保存されている「猪木vsアリ」の中継素材(1インチテープ)を借りに行った。スポーツ局のプロデューサーから「これ、めったに外に出さない蔵出し映像だから、扱いは慎重に頼むよ」と言われ、メチャクチャ緊張したのを覚えている。
編集所で久々に観た伝説のバトルは、あらためて見直すといろいろな発見があった。事前の取り決めで不利なルールを提示されながら、それでもアリと闘うことを優先し、条件をすべて呑んだ猪木さん。そんな中で、勝つための唯一の方策が、あの「寝っ転がり戦術」だったのだ。アリ戦の直前、猪木さんは蹴りに磨きをかけるため、極真空手・大山倍達師範に頭を下げ、極真の道場に出向いて修行まで行った。これも「なんでそこまで」だ。
試合のVTRを観ていて印象的だったのは、猪木さんの目である。「絶対にアリを倒す」という、ガチ以外何ものでもない、狂気に満ちた目。小4のときには退屈だった試合がその瞬間、鳥肌の立つ試合に変わった。試合後、アリの脚は紫色に腫れ上がり、実は大きなダメージを負っていたのも有名な話。やっぱりアントンさんはすごい人だった。
その後も、「スポーツ平和党」で参院選に出馬し当選したかと思ったら、恩師・力道山の生まれ故郷である北朝鮮に赴き、独自の「スポーツ外交」を展開。平壌に20万人を集めてプロレス興行を実現させたり、とにかくやることなすこと、想像の斜め上を行くスケールの大きいことばかり。プロレス自体はすっかり観なくなったけれど、永久機関の開発など、猪木さんの破天荒な行動を見聞するたびに「お〜、アントンさん、やっとるな〜!」とつい嬉しくなる私だった。
「アントニオ猪木の生き様」とは?
ボクシング世界王者のアリと闘った猪木さんは、見方を変えると、総合格闘家の元祖とも言える。2002年、K-1とPRIDEの対抗戦として旧・国立競技場で行われた「Dynamite!」に猪木さんがプロデュースで協力したのは、ごく自然な流れだった。
このとき驚いたのが、第5試合が終わった後、猪木さんが国立競技場の上空3000mからスカイダイビングで競技場に降り立つパフォーマンスを見せたことだ。実は猪木さんは極度の高所恐怖症で、もちろんプロがサポートするとはいえ、夜の降下だから何が起こるかわからない。翔ぶ前の猪木さんの顔は引きつっていた。てか、空から降りてくる必要なんて、まったくないじゃん!
だが猪木さんは意を決して、闇の中で翔んだ。格闘界を盛り上げるために……と言うよりも「アントニオ猪木の生き様」をずっと見守ってくれている人たちのために、だ。「猪木が猪木を裏切っちゃいけない」、これが猪木さんの信条であり、亡くなるまでそれを通した方だったと思う。私はそんな猪木さん=アントンさんが大好きだった。心からご冥福を祈りたい。
作詞はなかにし礼、「炎のファイター」B面曲「いつも一緒に」
で、『Re:minder』の記事なのに、ここまで音楽のことに何も触れてこなかったので、最後にひとつ、「猪木vsアリ」絡みのレコードについて語っておきたい。そう、猪木さんのテーマとしてよく知られているインストゥルメンタル曲「炎のファイター」だ。
この曲、もともとはアリの伝記映画で使われていた「アリ・ボンバイエ」という曲で、アリが猪木を讃えてプレゼントした曲、ということになっている。曲中の叫び「イノキ・ボンバイエ!」はつまり“カヴァー”なのだ。そのあたりの話は、『アントニオ猪木の入場テーマ「炎のファイター」宿命のライバルは太陽にほえろ!』をご参照いただきたい。
で、今回私が触れたいのはそっちではなく、B面曲の「いつも一緒に」である。この曲、A面の「炎のファイター」に歌詞を付けたもので、歌っているのは誰あろう、当時の夫人・倍賞美津子さんである。途中で曲調がロバータ・フラック風になるのはご愛嬌だ。作詞はなかにし礼氏。こういう濃い目の仕事は、全部この人に依頼が行くのはなぜだろう?(笑)
日本プロレス時代の先輩・豊登氏が引き合わせた2人。猪木さんの最初のプロポーズは、まだ妻子がいるときだったというのも凄い話だ。その後、前妻と離婚した猪木さんは、1971年11月、晴れて倍賞さんと結婚。「豪華1億円挙式」は世間の大きな話題になった。
新日本プロレス立ち上げは1972年1月、挙式からわずか2ヵ月後のこと。倍賞さんは宣伝カーのナレーションを吹き込んだり、融資先に出向いたり、自身も売れっ子女優で忙しかったはずなのに、新団体をなんとか軌道に乗せたい猪木さんのために奔走した。まさに「内助の功」だ。
思うに、猪木さんの行動がどんどんエンタメ主義に走っていったのは、役者であり「見られてナンボ」の倍賞さんの影響も大きかったのではないか。2人の結婚生活は1988年、17年目に終止符が打たれたが、2003年の新日30周年記念・東京ドーム大会ではサプライズで倍賞さんが会場に駆けつけ、猪木さんと一緒に「1、2、3、ダー!」を披露している。夫婦ではなくなっても、2人はよき「同志」だった。
いつも一緒なの 愛があるから
(「いつも一緒に」より)
2023.02.20
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