ソウルの貞洞(チョンドン)の道は世界のどこに出しても恥ずかしくないほど美しい道だ。歌手イ・ムンセの歌のように「もう歳月が流れてすべて変わった」が、依然として残っているものは多い。その中でも「丘の下の小さな教会堂」貞洞教会と徳寿宮(トクスグン)の石垣、そしてその下を「仲良く歩くカップル」に変わりはない。 かつて徳寿宮の石垣道(トルダムキル)を共に歩いた恋人は別れるという俗説があったが、それは「貞洞の丘の上に家庭裁判所があったため離婚する夫婦が訪れながら出てきた話」というのが、その道を歩いたときに耳に入ったガイドの説明だ。現在その裁判所はソウル市立美術館に変わり、多くのカップルを引き寄せている。 ところが先日からこの道に合わない風景が見られる。まず米国大使官邸を守る警察バス5、6台が1車線をほとんど埋めている。このため車は1車線で交互に通行しなければならず、歩行者は仮設の歩道を肩をぶつけながら通過しなければいけない。寒ければヒーターを暑ければエアコンをつけるバスはいつもエンジンがかかっていて排ガスを出す。 2019年にある大学生の団体の会員が大使官邸の塀を乗り越えて占拠した後に強化された警備措置だ。当時はしごを使って塀を越える学生らを人員不足という理由で眺めていた警察が、今では逆に過剰な人員で大げさに警備しているのだ。 気を取り直して救世軍教会側に丘を歩いて登ってみると、さらに眉をしかめる風景が待っている。徳寿宮の塀の一部を崩して建物を建設する工事が進められている。 ◆理解しがたい惇德殿の復元 文化財庁の説明によると、「日帝によって毀損された惇徳殿」の復元工事だ。1907年に大韓帝国の高宗(コジョン)皇帝が外国使節を迎えたところであり、純宗(スンジョン)皇帝の即位式が行われた場所なので「歴史的」という。 しかし私は慶運宮(徳寿宮の旧名)の北西側の隅にあり痕跡なく消えたこの建物をなぜ復元する必要があるのかまったく理解できない。特に意味のある建築様式でもなく近隣にあったロシア公使館を真似て建てられたうえ、その場所に20年間ほどしか存在していない建物だ。さらに設計図も残っていないためそのまま復元することもできない。このため石とレンガでまともに建設するのではなく、鉄骨を使って外見だけを生かす復元をするというが、なぜその必要があるのだろうか。 昔のものは無条件に復元すべきということなのか。朝鮮時代が現在の我々が見習うべき理想郷と考えているのか。建物が必要ならむしろ現代的な建築様式と伝統を調和させたこの時代が誇れるものを建てるべきではないだろうか。 「歴史的」意味も残念なのは同じだ。惇德殿は1902年に開かれる予定だった「高宗即位40周年稱慶礼式」のために建てられた。高宗はこの行事を通じて大韓帝国の威容を対内外に誇示しようとした。しかし当時の我々の事情は誇れるものだったのか。 ジークフリート・ゲンテというドイツの記者が惇德殿の建設当時の状況について残した文章がある。 「ロシア公使館をモデルに現在多くの費用をかけて宮殿を新しく建てている。より華麗に威厳があるように建てるという。相次ぐ支出で減っていく国庫が支えられるのなら、待機室と柱のあるベランダが付いた建物は丈夫な花こう岩で作ってこそ壮厳であろう。しかし国王が新しい宮殿に居住するかは疑問だ。皇帝の生活習慣が依然として純粋な朝鮮式であるからだ。新築を勧めた外国人に対する体面を王は気にするようだ」(文化コンテンツドットコム引用)。 ノナカ・ケンゾウという人の「石造殿建築の経緯」という文章にはこのような内容も出てくる。 「惇德殿は明治34年(1901)に完工し、工事費は16万ウォンだったが、実際にかかった金額は5万ウォン前後という話があり、厳しい財政を感じさせる」。 実際、1904年まで惇德殿が皇帝の主な活動空間ではなかった。1904年の慶運宮大火災当時に無事に残った数少ない建物だったため用途が生じたが、1919年の高宗の崩御からは放置され、いつのことかも分からず取り壊された。 ◆文政権の反日フレーム こうしたみすぼらしい歴史の建物をあえて復元する理由が何か。国民の反日情緒を利用しようとする政治的な意図のほかには説明できない。すでにその前に「高宗の道」まで作った政府(ソウル市)だ。その道も考証の問題は別にして、日帝を恐れてロシア公使館に逃げた王の逃走路にあえて「王の道」と名付けた。 文在寅(ムン・ジェイン)政権は執権中ずっと反日フレームの中から出てこなかった。悪化する韓日関係を改善する努力どころか、むしろ反日情緒をあおって両国関係を悪化させた。日本が政経分離の原則を無視して過去の問題に輸出規制で報復すると、待っていたかのように大統領が李舜臣(イ・スンシン)の「尚有十二」を云々しながら亀甲船刺し身料理店で食事をした。参謀と支持者は「竹槍歌」「土着倭寇」のような耳慣れない用語で呼応した。 国民を親日と反日に分け、韓日関係を心配する保守勢力を「親日派」に追い込んだ。支持者を結束させて支持率を引き上げる国内政治戦略だった。その渦中に元慰安婦や独立活動家のためだという市民団体の物乞い商売、機会主義者らが私腹を肥やした。 反日フレームを強めると、高宗のような無能な君主も日帝に抵抗した闘士として美化する必要があったし、そこから出てきたのが高宗の道と惇德殿の復元だったのだろう。この2つの事業を始めた主体が反日市民団体を支持勢力とした故朴元淳(パク・ウォンスン)前ソウル市長という事実がこれを雄弁に語っている。 東京オリンピック(五輪)を控えて政府が突然急変し、多くの人たちを戸惑わせたが、期待した東京での「南北平和ショー」が水の泡となっただけに、また反日モードに転じるのは明らかだ。五輪選手村の韓国選手団のベランダに掲出された横断幕からしてそうだ。大韓体育会は否認するが、「臣にはまだ5000万の国民の応援と支持が残っています」という横断幕のフレーズは「戦闘に参加する将軍のイメージを連想させる」というIOCの指摘が正しい。そこには視線を引くセンスもなく、虚しい被害意識ばかりがあるだけで、したがって不必要な挑発でしかない。あたかも友人の誕生日パーティーに行って「昨年お前は私を殴っただろう」という言葉を繰り返すのと変わらない。我々がこのようにしながら、日本の極右勢力が旭日旗を振って応援するのを批判できるのだろうか。 やむを得ず撤去した後、次に設置した垂れ幕も美しくは見えない。「虎が降りてくる」というフレーズと共に韓半島(朝鮮半島)を虎で形象化した絵だった。ウェブ漫画家のユン・ソイン氏が言うように「脊椎の折れ曲がった虎」と興奮するほどではないが、彼の指摘には同感する。「肯定と応援・和合・幸せ・余裕が何かも知らず、あらゆることに悪意的、敵対的であり、何かあればただではおかないという態度の国がわが祖国であるのはあまりにも悲しい」。彼の言葉のように「世界の人々の祭りに参加できてうれしい」「厳しい時期にみんなで頑張ろう」という垂れ幕を掲げるのがそれほど難しいことなのか。 おもしろいのは韓半島の虎の著作権者が六堂・崔南善(チェ・ナムソン)という事実だ。崔南善が1908年に出した大韓民国最初の近代的総合雑誌『少年』の創刊号に掲載された。韓半島をウサギに比喩した日本地理学者に対する反論だった。しかし崔南善は変節した知識人であり、反日団体が最も軽蔑する人物の一人ではないのか。 李相敦(イ・サンドン)教授は「親日に変節した代表的な知識人に挙げられることを考えれば、崔南善のアイデアである『虎韓半島』が民族の象徴として東京五輪の選手村に掲出されている現実はもう一つのアイロニーでしかない」と話す。
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